らもはだ日記

1985年8月。

中島らもとの最初の出会い。
高校時代、70年代伝説の読者投稿雑誌「ビックリハウス」に投稿。「エンピツ賞」って小説の賞と、「カートゥーン大賞」ってマンガの賞を立て続けに受賞した。そのせいで兵庫県高砂市の牛谷なんていうド田舎に住んでいた少年が、サブカルの狭い世界とはいえ、なんだかいきなり全国的に注目されることとなった。

個人情報にうるさい今では信じられないが、当時の投稿雑誌には採用者の名前と一緒に住所も掲載されていたのである。
そのためファンレターが一日に100通届いたこともあった。田舎の夢見がちなサブカル少年は完全に浮かれていた。
さらにミラクルは続く。ビックリハウスでの評判を聞きつけた大阪の長征社という小さな出版社から連絡があり「君の本を出さないか?」と打診があったのだ。

二つ返事で飛びついて、19歳の時、童貞作品集「父しぼり」を上梓した。高校時代に書きためていた、10代の童貞の妄想とただひたすらやみくもに世の中への「NO!」を叫ぶ不平不満を叩き込んだ小説&詩を一冊にまとめたものだ。あまりにも嬉しくて、いきなり「ボクもこんなの書いてます。よかったら読んでみてください」と自分が好きだった方々に面識もないのにファンレターがわりに本を送りつけた。その中に、当時、サブカル誌「宝島」の「啓蒙かまぼこ新聞」で人気だったコピーライターの中島らもがいたのである。

らもさんを初めてテレビで見たのは「どんぶり5656」という読売テレビで1983年に放送していた伝説のカルト深夜番組の中であった。
竹中直人と2人で「お互いの脂症の顔面にどこまでいろんなモノをひっつけることが出来るのか?」をただひたすら競い合うだけのナンセンスコントを演じていた。
「どんぶり5656」は、新進コピーライターとしてバリバリ売り出し中だったらもさんの企画立案で、公共の電波を利用して本当に好き勝手に遊んでいた深夜番組だった。

西川のりおが「うどんとパン」という宝島VOW的看板の前で
「♪うどん うどん パン パン うどん パン パン」とドンパン節の替え歌を熱唱するだけのオープニングコント。
同じく西川のりおが、街中を「ただひたすらまっすぐに走りぬけていく」だけの「夜はまっすぐ」(途中に民家があろうがおかまいなく、まっすぐ走って乱入していく、街頭テロみたいなコーナー)。

らもさんの初期のエッセイにも登場する当時大阪のライブハウスでその名を口にしただけでみんなションベンちびったという超暴力ハードコアバンドZOUOのボーカリスト、チェリーの「関西ナンバーワンの高さを誇ったモヒカン頭」の髪を立てる一部始終を写したプロモーション・ビデオ。
花火のあがる美しい映像に「テレビは家具だ」というテロップをのっけて数分間流し続けた早すぎた環境ビデオコーナー。

そんなシュールなコーナーの合間に、東京でさえまだ知る人ぞ知る存在だったコメディアン、竹中直人がレギュラー出演してモノマネなどの本芸を披露。
当時、「ビックリハウス」や「宝島」がバイブルのサブカル大好き少年だったオレはこの「どんぶり5656」にずっぼりハマって、毎週欠かさずオンエアをチェックするフリークと化していた。
オレにとって中島らもとは、この「どんぶり5656」を創っているぶっ飛んだセンスの憧れのクリエイターというイメージだったのである。

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