らもはだ日記

1985年11月。

中島らもと知り合ってから、全然飲めなかったオレの酒とバラの日々が本格的にスタートした。
例えばこんな一日。

朝、らもさんの家で目を覚ます。前夜の深酒による二日酔いで頭が痛い。
起き抜けのブロンを一気飲みでキメたらもさんがオレに言う。
「行こか」
らもさんにくっついて、大阪へ。
毎週土曜日はFM大阪でやっていたラジオ「月光通信」の収録だった。サブカル系のゲストとのトークに、書き下ろしの新作ラジオコント、さらに普通のFMでは聴けないマニアックでニューウェーヴな楽曲がかかる、当時の「宝島」を読んでいたような関西のトンガリキッズ達に絶大なる人気を誇っていたラジオ番組である。

収録スタジオにて。
「鮫肌、コント書いてくれへんか」
自分で書くのが面倒くさくなると、よく仕事をフッてくれた。
すぐに書いて、らもさんに渡す。
番組の収録が終わると、スタジオ近くの中華屋でランチ。
とは言っても、らもさんはほとんど食べ物を口にしない。飲むのはもっぱら冷やの日本酒。
真っ昼間から飲む酒は、回る回る。

「会社行こか」
まだ飲み屋が開いていないので、らもさんの勤めていた広告会社、日広エージェンシーのオフィスまで行く。
土曜日は会社が休みで、社長も秘書も来ていない。
酒屋で買った一升瓶を、雑居ビルの一室にあった小さなオフィスに持ち込んで、湯のみ茶碗に注いでグビグビ。

アホ話をしてるうちに夕方に。
「そろそろ、正宗屋が開く時間やろ」
夕方の開店と同時くらいに入店。梅田一安い「せんべろ」酒をかっ食らう。
3時間も飲んでいると、今度は、オカマのヒコちゃんのバー「DO」が開く時間だ。居酒屋でベロベロになるまで飲んだ我々は、バーへ行き、日本酒から今度はウイスキーを飲み直し。

「DO」にいたら、キッチュさんをはじめ誰か知りあいが必ず来るので、合流してさらにバカ騒ぎ。オレは、もうこの段階で朝から5回くらいゲロっているのだが、ゲロを吐いては復活して、らもさんに必死についていく。
さんざん飲んだ後、タクシーに乗り、またらも宅に舞い戻る。それから、もういっぺん飲み直すのであった。

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