らもはだ日記

1985年9月。

初めて行くテレビ局。
兵庫県高砂市牛谷に住んでいたパンク少年鮫肌は舞い上がっていた。
らもさんに呼ばれて、番組のブレーンとして足を踏み入れた読売テレビ。
「ここがテレビ局か」
広いロビーがすべて光り輝いて見えた。
受付で「鮫肌」を名乗ると「聞いております。2階の会議室Aにお越しください」
キレイな受付のお姉さんの案内を聞いて、すぐに2階の会議室へ向かう。

ナメられたらアカンと着てきた、自分にとってのパンクな勝負服「ジョン・ライドンのTシャツ」に破れたジーンズ。でも、ドックマーチンが高くて買えないので靴はオカンが買ってきたダイエーのスニーカー。田舎モンなりに精一杯のパンクファッションでキメてきたつもりであった。
会議室には、「予算がないからとにかくブレーンだけは豪華にしたい」と、らもさんが言っていたメンツがすでに集まっていた。
コピーライター、広告マン、編集者、音楽プロモーターなどなど。マハトマ・ガンジーそっくりの編集者のことを、らもさんは「この人がプレイガイドジャーナルの編集者のガンジー石原です」と紹介した。

当時、サブカル好きはみんな読んでいた投稿雑誌「ビックリハウス」のおかげで、常連投稿者のオレのことはみんな知ってくれているようだった。
それぞれの自己紹介が終わって、背の高いメガネのお兄さんが議事進行を始めた。

「司会は、らもさん。東京から、シティーボーイズ、いとうせいこう、竹中直人を呼んでコントをやってもらおうと思っています。
他は何も決まっていません」
その人が、番組の総合演出のツジさん。
現在、舞台の演出家として活躍するG2はまだこの頃、読売テレビの社員ディレクターで、この番組が初の総合演出デビューであった。
「でも、タイトルだけはこうしたいってのがあるんです」
ツジさんがホワイトボードに書く。

『なげやり倶楽部』

「友達が言ってた“なげやり”って言葉が妙に気に入っていて。これでいこうと思います。どうですか?」
一同、賛成。
番組タイトルは、すんなり決まった。
それよりオレは、ツジさんの挙げたシティーボーイズ、いとうせいこう、竹中直人の名前にワクワクしていた。これってラジカル・ガジベリビンバ・システムの面々じゃないか!いま東京で一番トンガッた笑いを追求しているお笑いユニット。
「ラジカルの人たちと会えるかも」
プロの放送作家だったらこんな時、自分の書いたコントを彼らにやってもらえる! と考えるものだが、その時のオレはミーハー的に「有名人に会える!」って気持ちが先。ただのド素人である。
テレビってやっぱり凄いなあ。
今日はらもさんの集めたブレーンの顔合わせ的な性格の会議だったようだ。
結局、スタッフの自己紹介のあと、タイトル以外は何も決まらないまま会議は終了。

「飲みにいこか」
らもさんが会議に参加していたメンツに向かって声をかけた。
「行きましょう、行きましょう」
ドヤドヤと会議室からそのまま、局近くの居酒屋へ移動。
オレ以外、全員行くようだ。
みんな、普段かららもさんの飲み仲間でもあるらしい。
「キミも、来る?」と、らもさん。
「行きます!」
まだ若干19歳だったオレ。高校生の時に初めて飲んだワインでゲロを吐き、二日酔いで死ぬ思いをして以来、酒を口にしていなかった。正直、酒は苦手。

実家の牛谷まで大阪から電車で2時間はかかる。でもまだ夕方。帰れるだろうと、らもさんのお誘いに「行きます」と即答。
まさかその時、この日から25年間も毎日毎日大量飲酒を続け、ついにはすい臓がバースト。慢性すい炎になって酒でドクターストップがかかるまで四半世紀もの間、延々と二日酔い状態になろうとは思ってもみなかったのであるが。

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