らもはだ日記

1990年11月。

松尾貴史の誘いで上京し、古舘プロジェクトに入って本格的に放送作家の修行を始めた。
松尾さんの口説き文句は「放送作家をやれば3日で食えるから」。
事務所に行くなりチーフマネージャーに制作会社に連れて行かれた。

「待ちかねたよ、君が鮫肌くんか」
待っていたディレクターにいきなり拉致されて「じゃあ、今から海の家100件に電話して一番人気のメニューを調べてくれるかな」
何も聞かされて無かったオレは面食らった。これって人身売買じゃないのか? とさえ思った。でも仕方ない。渡された海の家100件のリストに電話して取材したところ、担当のディレクターに「いいねえ。君、合格!うちの番組のリサーチャーに採用決定」。
当時、放送作家の駆け出しには番組のリサーチャーという仕事があった。まだまだ東京のテレビ界はバブルの真っ只中。業界の最底辺からスタートしたオレみたいな人間にも山のように需要があったのだ。松尾さんの言った通り3日とかからず、いきなりレギュラー番組を持つことが出来た。

それから1年くらい松尾さんが文化放送でやっていたラジオの帯番組でADのような見習い業務をやりながら、調べ物の日々。いろんな番組のクイズ問題を作っていた。
リサーチャー業を卒業して、テレビの世界で初めてスタッフロールに名前が出たのが日本テレビの「進め!電波少年」。
伝説のメガヒット番組だが、始まった当初は3か月で終わると言われていた。アポ無しロケが売りなので、いつロケに出てもいいように1週間いつでもスケジュールが空いているタレントってことで松村邦洋と松本明子というヒマヒマタレントが出演者に選ばれた。

かくいうオレも、総合演出のT部長こと土屋敏男さんがうちの事務所の所属タレントのパンフレットを見ていた時、作家部門にオレの名前を偶然発見。「あ、あのビックリハウスの面白い投稿少年だ!こいつだったら何か良いアイデアを出すかもしれん」とたまたま番組に呼んでもらえただけなのであった。
しかし、ダメでもともと何も捨てるものがない無軌道で跳ねっ返りな若い集団ほど怖いものはない。我々作家のアイデアの一番過激なものから採用していく土屋さん、それを次々と形にしていくディレクター、文字通りカラダを張ってロケをやる松村&松本コンビ。三位一体であっという間に評判の番組になっていった。

オレのネタで最初に採用されたのは「死ぬ前にもう一回だけ冥土の土産にSEXしたい老婆募集」。
このネタが採用されてオンエアされてしまうんだから、気が狂っている。
電波少年のヒットで「あの番組に鮫肌というキチガイ作家がいる」と評判になっていろんなバラエティー番組からお声がかかるようになった。
90年代の中盤、まだコンプライアンスなんて言葉がなくて、やんちゃがやれたテレビの最後の時代に間に合ったオレ。
深夜番組で、日本の伝統芸・花電車を生中継しようとしたり、ノーパンしゃぶしゃぶを再現しようとしたり、やりたい放題。あげくの果ては「女性器の新しい名前を考えるチンポジウム」って企画をやったら担当のプロデューサーが飛んでしまった。
「いかに自分が気の狂ったキレッキレの作家か」のアピール合戦をしていた、放送作家にとっては幸福な時代。

  1. 1
  2. 2