11/30 更新
「ホントに豆腐10丁食べられるね?」
1985年11月。
日広エージェンシーに入社してコピーライターを始める前、無職時代のらもさんの家には、有象無象のヤバい友人たちが「ここなら雨露もしのげるし、なんならクスリもある」とワラワラと集まってきていた。
仲間内では通称「ヘルハウス」と呼ばれ、夜ごと酒池肉林の狂宴を繰り広げていたらしい。
らもさんにくっついてオレが出入りし始めた頃には、もうそんな荒んだ雰囲気は無くなってはいたが、相変わらず飲み仲間がやって来てはお泊りしていく「雑魚寝」の家ではあった。
そんな元「ヘルハウス」を仕切っていたのは、らもさんの奥さんのミーさん。
中島らもも相当にぶっ飛んでいたが、一見普通の人の顔をして、さらにぶっ飛んでいたのがミーさんだった。
いつも家の中で何か日曜大工的な作業中。らもさんと帰ってくると、ペンキ片手に「お帰りなさい!」
見ると、玄関のドアの下のところに開閉する犬用の小さな扉を作っていたりする。
「ねえ、ねえ、見て見て!犬が自由に外から出入り出来るようにここにドア作ったんだよ!」
ニコニコしている。
それを見て苦笑いしているらもさん。
そう、ミーさんはどんな時でもいっつもニコニコしていた。
犬や熱帯魚など、いっぱい動物を飼っていた中島家。亀までいた。その世話も全部、ミーさんがやっていた。
それは、らもさんが死んだ今も続いている。
らもさんの命日。年に一回、担当だった編集者の皆さんが集まる追悼の飲み会に出るため上京した時も、泊まらずに最終の新幹線に乗って日帰りしたもんな。
「帰って世話してあげないと、家の生き物が死んじゃうから」って、ニコニコと変わらない笑顔のままで。
バイクが好きで、ちっちゃい体でツーリング仲間とあちこち爆音をあげて乗り回す。
ある時、見ると左足にでっかいギブスが。
「ミーさん、どうしたんですか!?」
「うん、昨日バイクで転んで、折ったの」
平気な顔で、ニコニコしている。
「大丈夫ですか?」
「昨日から煮干しをたくさん食ってるから大丈夫!」
いや、そういう問題じゃない気が。
ミーさんとらもさんは、らもさんがフーテンをしていた学生時代に知り合ったらしい。
中島家のトイレの中には、らもさんとミーさんの若かりし頃の写真がいっぱい貼ってあったのだが、その写真を見ると10代のミーさんは本当に天使のように可愛いかった。
ウンコしながらその写真を眺めては「可愛いなあ」と毎回思っていた。
そう、ミーさんは何でも受け入れてくれる天使のような女性だった。
らもさんは、こんな手紙を書いてプロポーズしたという。
「ミーがイエスと言わなければ、僕は……例えばチキンラーメンの乾いたのに戻ってしまう」
中島らもが夢中になったのもわかる。
どんな悪いことが起きてもミーさんのニコニコ顔を見れば吹っ飛んだに違いない。
ミーさんの教育法も独特だった。
息子のアキホくんと、娘のさなえちゃん。まだ小学校低学年だった2人に言い放った今でも忘れられない名言がある。
「水とカレーで、一汁一菜!」
子供たちもこんな逞しい母親に育てられて幼い頃からサバイバルライフが身についているようだった。
入れ替わり立ち代り、見知らぬ酔っぱらいがやって来ては雑魚寝して帰る家で育った子供たち、
朝起きると、全然知らないオトナが床に転がって寝ているのが当たり前な生活。
ある朝、キッチンのほうで何やら音がするので目が覚めた。見ていると、アキホくんとさなえちゃんの2人が、インスタントラーメンを一袋開けて自分たちで作っている。
出来た一食分のラーメンを2人で鬼のように分捕りあって食っている。
「それ、僕のだよ!」
「あたしも食べたいッ!」
もちろん、両親は起きて来ない。だって、オレに朝までつきあって飲んでいたから。
朝メシらしきものを食べ終わると、ランドセルを背負って学校へ行く時間だ。
「いってらっしゃーい」
床に寝転んだまま、声をかけるオレ。
「いってきまーす!」
元気に答える2人。
中島家では、子供も日々サバイバル。タフだった。