らもはだ日記

まだ松尾貴史が芸名キッチュを名乗っていた頃、「なげやり倶楽部」のコント収録の現場で出会ったのがファーストコンタクト。
らもさんの弟子を自認する松尾さん。すぐに仲良くなった。
未だに松尾さんに言われるのが、「なげやり倶楽部」で知りあってすぐ、オレの二十歳の誕生日の出来事。
らもさんにくっついて、オカマのヒコちゃんのバー「DO」で飲んでいたオレは物凄く落ち込んでいたらしい。

「どうしたんや、鮫肌?」
心配して聞く松尾さん。
すると、オレが。
「ハタチになったらもう『天才少年』って呼んでもらえなくなるんですよね」
と、こぼしたらしい。
全く記憶にない。
でも「何が少年や、酒場で飲んだくれてるくせに」と思いながら、「こいつ、アホやなあ」と愛おしくなったという。


同じく「なげやり倶楽部」をやっていた頃、松尾さんが高砂の実家に、コントを書く仕事を頼もうと電話してきたことがあった。
まだ携帯電話のない時代、実家の黒電話あてにダイヤルしたところ、うちのオカンが出た。
「ハイ、イノウエです」
「キッチュと申しますが」
「は?」
「キッチュと申します」
「菊池さん?」
めんどくさいので菊池になる松尾さん。

「菊池ですが、あのー、鮫肌さん、いらっしゃいますでしょうか?」
「・・・ ・・・ ・・・・」
「鮫肌さん、いらっしゃいますでしょうか?」
「うちはイノウエです!」
「はあ、あの鮫肌さんは・・・?」
ガチャッ!
ツー、ツー、ツー。
オレの名刺に書かれた電話番号に電話したら、そんな冷たい対応をされたという。卒業ライブでモヒカンにした一件以来、オカンはオレが「鮫肌文殊」と名乗ってやっている活動にはすべて反対であった。
この時のことも未だに言われる。


そんな長い付き合いの松尾さん。
今の事務所、古舘プロジェクトにオレを誘ってくれたのも松尾さん。放送作家・鮫肌文殊の生みの親が中島らもなら、育ての親は松尾貴史なのだ。
25歳で上京して初めてついた番組が文化放送でやっていた松尾さんの3時間の夜ワイド「夜マゲドンの奇蹟」だった。それが東京での作家活動のスタート。
上京したばかりで右も左も分からなかったオレが、25年もなんとか放送作家でやれているのは、この番組での修行の日々があったから。
松尾さんが誘ってくれていなかったら、今頃、ホームレスにでもなっていたに違いない。
本当に世話になっている人だ。


「占い師に、知りあいの子供が言われたの!『亀が見えます』って。その子の亡くなったお父さんが最後に亀を買ってあげてたのよ。なんでわかるのよ、そんなことが。説明してごらんなさい!」
一歩も引かない室井さんに、呆れ顔の松尾貴史とオーケン。
これは朝まで続きそうだ。
この先、わさわさと迫り来るトラブルで、らも不在の状態にこれから何回も陥るとはつゆ知らず、らもさんのいない「らもはだ」3回目は室井佑月大暴れのまま、こうして幕を閉じたのであった。

(つづく)

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